昭和48年9月2日 朝の御理解
御理解の第95節「世には神を売って食う者が多いが、此方は銭金では拝まぬ。神を商法にしてはならぬぞ。」
え~、お経料が、あぁいくら、え~、御祈祷料がいくらと、いうような、やはり神様や仏様が、やっぱり、えぇあります、そういうようなことを、まあ指摘しておられるのじゃなかろうかと思うですね、こげなおかげを頂いたら、これだけのお疎退けをしなければならないと、えぇ、御祈祷するためにはいくらいくら、あぁお金がかかるとか、お札はあぁ一枚いくらですと、いったようなそういうことを、を、神を売って食うという風な、神を商法にしてはならんといったように、・・・
※地震が勃発
どう感じられたですか、しかしもう、ただ生神金光大神様を唱えよる他にございません私共は、ね、もうああいう時にはやっぱバタバタしてはいけません、本当にもう生神金光大神様唱えよる他にない、しかしね、本当にそういう風に白真剣に、あの生神金光大神様をどんな場合でも唱えられるという、信心を頂いておるということは有り難い、ね、ね、これがなら、申しましたように、とてもあの、商法で、あの、お金で拝んでもらうといったような信心からはこんなものは生まれて来ませんね、もう日がっ、日頃にそれこそ、神様との繋がり、先日からも申しますように、ね、平田さんが仰るように、神様との繋がりということは、神様との握手なんだ、ね、だからその神様が、と本当に繋がるとか、握手するおかげを頂くためには、まずは手を開かなければ、握りこぶしをこう持っておっていただけではね、握手は出来んのだと、まずは自分の手を開いて神様と縋るところに、ピッタリこう握手が出来るんだと、勿論開くということは心を開くのだということです、ね、だからご利益ならご利益だけの目当ての信心ではなくて、もう私共の信心の眼を開くと言うか、心を開かせて頂いての、生神金光大神様なんだ、だから力強いわけ、ね、心を開かにゃいけん、まずはだっ、心を開かなければ、そのいざという時に金光様が出てこない、生神金光大神様が、ね、それが私はお道の信心の有り難いところだとこう思うんです、と言うてなら私共なかなか信心は出来ません、え~、此方は銭金では拝まんと仰るが、なるほど銭金では拝んでは下さらんのだけれども、真心一心、本当のお礼心といったようなものが、出けてまいりますところから、拝むということ、こういう言葉を使っておられますが、あの、お取次ぎをして下さるという意味だと思うですね、真心を持ってお供えがあろうがなかろうが「こんな難儀な事になっとります」と言やぁ、あの氏子の難儀を神様へ取次いで下さるということだと思うのです、ね、そこで、え~、私達が昨日の御理解じゃないけれども、欲得にふけるということによってです、身を誤ったり滅ぼしたりする、ようなことがあってはならんという昨日の御理解でしたよね、欲得にふける、それこそ貯めた上にも貯めにゃ出けん、もう人の茶碗叩き落してからでもといったような、まあそういう意味なことを、一般では(?)ですけれども、これは昨日私申し上げなかったんですけれども、あの、後で、あの、頂かして頂いたことですから、今日ついでに聞いて頂きたいんですけどね、あの、信心させて頂く、今申しますように金光大神様との繋がりというもの、お取次ぎを頂いて助かることの出来れる私達の、欲得というのはどういうことかと言うとね、欲得にふけるということは、多忙にかまけて信心を疎かにすることですということです、これが、はっ、ね、今日一日働いけんいくらがつなるとこれはもう欲得なんです、ましてはそれを信心の方を、それで疎かにすることが、欲得を、ということなんです、お道の信心に、で、言うところの、欲得にふけるということは、ただ忙しいとか自分の都合とかということばかりを言うて、信心を疎かにする、かまけて疎かにするということが、欲得にふけるとこだと、してみるとお互いだいぶん欲得にふけっていることになりますね、今日はこげんのでちょいと、あ~ん、そりゃお月次祭でもあろうばってんお祭でもあろうけれども、今日はどこどこに行かにゃならん、さあなるほどそういうところを一にも神様二にも神様三にも神様といったような、生き方を日頃教えておられるんだと思うですね、うん、ですから欲得にふけっての、例えばおっ、拝むとか願うということではなくて、私共の様々な、その難儀な問題を、おぉお取次ぎを願う、言うなら拝んでもらうということもです、その焦点が、合楽では、あぁ、ね、お役に立ちたいからの願いであるということになってくるわけです、ね、お金も欲しいです、お金も他所に借り行かんなんようなことでは難儀です、ね、ですから、そのお金も、儲からしてもらわなきゃならんけれども、思う存分の御用にも立ちたい、お役にも立ちたいからなのです、健康の事を願うにもそうなんです、家庭が円満でという事もそうなんだ、ここにあの五つの願いというものが、の意義があるわけです、ね、たぁだ楽になりたいばっかりで、御利益を願うというのとは、言わば、あぁわけが違う、ね、そこで私共はそういうところに、え~いつも焦点をおいた信心の稽古をさせて頂くのでございますがです、えぇ言うなら私共の信心を振り返ってみて、これで良いということはありません、本当に信心も出来んのに、おかげを頂いてということが、多いのです、そこでなら金光大神が、それこそ銭金では拝まんと仰るが、ね、氏子の身の上の事、それこそ、お供えとか条件ということは無条件で、お取次ぎをして下さってある金光大神様へのお礼というものが、いつも心の中に、いぃ、なかっ、なされなければならない、私は最近お届け帳に、合楽教会関係教会というお届けを最近一つ増やしてお届けさして頂いております、それはこの頃から、えぇ、ここに神愛会の、お~、が四日にございますが、他所の教会の先生方が、あの、お~、お話に聞きにみえるわけです、そりゃまたあのおかげの泉を、おぉ色っ、希望の教会にお送らせて頂いておると、もう毎月お礼の手紙がくるんです、本当にあの、おぉおかげの泉によってこうおかげ頂いた、ああおかげ頂いた、こういうことが分からして頂いたと言うてもう、その喜びのお礼がまいります、だから内の出社ではない、けれどもそういう風で合楽と関係を作っていかれておるところの教会のことを願うのです、これなんかは願わんなら願わんでも誰も知らないことなんです、けれども、私は金光様はそうではなかろうかと思うですね、教祖様はそういう一つの関わり合いを作ったが最後、祈って祈って祈っておって下さるから、このようなおかげが受けられるんだ、ということです。
昨日は、なんか八朔の節句でございましたそうですね、私共椛目におる時にはあんな事はございませんでしたけれども、この近所では、八朔は大変、あの、こう、言うならば礼儀正しくですね、お配り物をしなければならん、子供が、息子なら息子、娘なら娘の、そりゃ全然こっちは、あの椛目でもそんな事ございませんでしたから、あの、知らんでおりましたら、あの、角内からお祝いを頂いたんです、ほらぁあんただんに、どげんしていいじゃ分からんから、そぐその、合楽食堂の中村さんに電話で家内が聞いたそうです、したら、八朔の節句には、息子ん時にはこげんせんなりません、あの~、何時にはこげなん風なお配りもせなきゃなりませんということだったそうです、そぉりゃ困ったさあ今頃言うたっちゃさあ饅頭一つ頼んでも、そん色んな物をなんか、えぇ作ってから、一緒に配らなきゃならん、ところが中村さんが丁度あの、もう私の方、あそこにも、あの孫が出けてますからね、私の方を除きますと、角家は六軒ですから5軒になります、ですからそん、お饅頭が11あまっとる、それから作ったもんが、五つあまっとるから、私の方んとで良かならば、使うて下さいませんかということだったそうです、うんならそげんして下さいっち言うたけん、すぐあの博之さんが持って来てくれてるわけです、それで、まあそれにお下がりのお菓子なんかをこう色々こう積め、こう長うせんならんということを聞いてね、そして、まあお配りをさせて頂いたようなことでございました、それで嫁がすぐお配りに行って帰ってまいりましたら、帰ってまいりましたらすぐお湿りがあり出しました、それからえ~、本当にね良子さん、あの、え~、ただ事じゃないよ家のなら、さあ今からバタバタせんならんというのに、さあお饅頭もちゃんと誂えた饅頭が、あぁ11っ、二つづつ配るとですね、ですから、あのぉ、丁度、おぉ5軒分あるし、それからあげなつばもろうたら随分時間かけて作ったつでしょうと思う、なんかお雛さんのような人形をですね、二つ作ってから、それにあの色んなお飾りをしてあるとが、丁度五人分あまっとるっち、だからそれを使うて下さいと言うので、使わせて頂いたと、もう本当に素晴らしいタイミングと言うか、神様の前々からのお計らいと言うか、こちらは夢にも思わなかったようなことのためっ、でも、このようなお繰り合わせを頂いた、はぁ丁度ふが良かったですねだけじゃ済まされない、今あんたがお配りをして帰ってきたら、雨にも濡れずにお湿りを、を、受けずに、おかげ頂いたと、もうこげんところをね、もうしっかりお礼ば申し上げんならんばい、もうおかげを頂いて、私は何にも知りませんでしたけれども、もう神様が準備しておって下さったようなもの、ね、こういうところのお礼ばしっかり申し上げても申し上げても足らんのだけん、ただふが良かったで済まさずに、あの、このとっ、ここんとこをしっかりお礼を申し上げんならんばい、信心なそのお礼を申し上げるところから、信心も育つ、また次のおかげも頂けるとじゃけんねと言うて、まあ話したことです、ね、ですから銭金では拝まれませんけれども、私共のそうした、ね、一日頂いておるおかげをおかげと感じさせて頂いて、お礼を申し上げるという、その心に感応まします、金光大神のお取次ぎの働きというものが生き生きとしてくるんだということなんです、信心は出来ません、出来ませんけれども、神様がそのようにしておかげを下さる。
昨日、お月次祭の、をぉ、十四・五分前に、えぇ、井上さんのところの、久留米の、おぉ、御親戚の方が、あぁ、亡くなられて、昨日が丁度おぉお立ち日にあたるからと言うので、十日祭二十日祭という風に、まあその、お~、まあ、あ~、御本人が何回かここにお参りになったことがあるんです、それで合楽の金光様にお願いをして下さい、あいらっ、あぁ私が死んだなら、これこれだけのお供えをして下さい、私がっ、という風な、その言い置きをしてあったそうです、それで、井上さんがああいう厚い信心をなさいますから、昨日ご兄弟、それからご親戚の方も二人みえておられましたが、あの、言うなら、確かさっ、三十日祭だったでしょうかね井上さん、の、そのお~、お祭を、まあお祭に合わせてしてくれということでございましたから、あのお祭前に、神様にその事をお届けさしてもろうて、まあ簡単な霊祭を、奏法さして頂きました、そしてその事を私神様にお礼申さして頂いたら、お願いさして頂きよりましたら、あのテレビやら映画やらで、あの例えば、あの、ああいうまあトリックですけれどもね、あの三味線を弾ききらんでも、影の方から弾いて、丁度その方弾きよるような、あの場面がございますでしょうが、歌を、これは口だけ開けよるわけですね、歌いきらんげな他んとが歌いよる、笛を吹きよる、けれども、本人はただ手をこうこうしよるだけで、本当の声は影の方から流してあるといったような、ああいう場面を頂くんですよ、言うならば本人、今日その、夕べのみっ、お祭を受けておる霊様というのは、ただ合楽を知っておったというぐらいなことで、ね、笛のあの、吹く、例えば道ぐらいは知っとるけれども、自分でなら吹きはきらないけれども、井上さん達の信心でです、もうそれは吹ききるもの、例えば三味線で言うならもう弾ききるものとして、神が受けいるという意味のことを頂いたです、いわゆる、あの~、井上さんの真心で、ね、しっ、なら霊としては信心の徳もなんもないのだけれども、ね、例えばその笛を、を、吹っきらんけれども吹ききるものとして、神が受けとる、神様のね、おかげを下さるというのはいつもそうです、そこんところがならどういうことかと言うと、信心も出けませんのにおかげを頂くということはどういうことです、お願いもせんのに神様がおかげを下さるというはそういうことなんです、ね、ただ少し、あの、まあ言うなら神様が、喜んで下さるようなことを思うたり言うたりね、させて頂くということだけで神様がもうそれが、十分に出けたように、受けて下さっておかげを下さるのです、そこでなら金光大神の、ん、この今日のおぉ、御理解から頂きましてもです、ね、私共は信心も出けんのに金光様のおかげで、言うならば、信心が出けたかのようにして、おかげを下さってあるのでございますから、ここんところをしっかりお礼を申し上げなければいけませんよということなんです、昨日私が夕べ嫁に申しましたようにです昨日、ね、ただふが良かったでは済まされない、はぁ丁度そりゃ良かったね、と言うな時がいつもある、そういう時をしっかりお礼を申し上げることによってです、その丁度良いとか、もうこげんふの良かこつがあろうかというようなことが、続くようなおかげになってくるんです、素晴らしいタイミングの中に日々を過ごさして頂く、必要なものが必要に応じて、頂けるほどしのおかげというのは、そういうおかげなのだ、そういうおかげをおかげとして、疎かにせずに、お礼を申し上げる信心から、それが生まれてくるんです、そういうおかげが頂けてくるんです、ね、だから勿論、あ~、えぇ、神を商法に、いぃ、または、あ~、神を売って食うと、いう、今日の御理解には、少し、えぇ外れておるようですけれども、此方は銭金では拝まんと仰るところを今日は頂いて頂いた、ね、そして私共のです、言うならば、ぁ信心、ね、そこのおかげを受けてもおかげを受けてもおかげをおかげと気づかないところから、問題がいわゆる、いよいよ問題になって、こじれてくるわけでございますから、そこんところを気づかせて頂いての、信心、そこんところをまあ昨日の御理解から、申しますとです、欲得の、欲得にふけっておるとです、おかげをおかげと気づかないのです、不思議に、ふけっておりますから、何かに熱中しており、金儲けなら金儲けに熱中してますから、神様のおかげを頂いておっても、おかげをおかげと気づきもせん、そこで、欲、欲得にふけるということは、多忙にかまけて、ね、忙しい事にかまけて、信心を疎かにするということが、お道の信心でいう、欲得にふけるということですから、ね、欲得を言わずの信心を、さして頂くというような心がけにならして頂くと、その心がけに神様が感応ましまして、今日の井上さんのところの霊祭じゃないですけれども、弾きはきらんけれども、もう弾っきるもんとして、吹きはきらんのだけれども、もう良い音色が出たものとして、神様が受けて下さるようなおかげが頂けるわけであります。
どうぞ。
入力者:誠輝